六麓荘|芦屋っぽい風景
1.六麓荘の概要
六麓荘町には中古マンションはありませんよ。
阪神間の中央部芦屋市街地の北東部にあって、
東側は西宮市苦楽園と接している。
六甲山麓の標高75~210メートルの丘陵地の南斜面にあります。
南北に1.1Km、東西400mの土地で概数で250戸、人口600人でなります。
六麓荘町には、富裕層?の子弟が多い学校法人芦屋学園があります。
また同じく甲南学園中高校も近くにあります。
2.町の設立
1928年(昭和3年)株式会社六麓荘が国有林10万坪の払い下げを得て、
197区画の宅地開発に乗り出した。
当時大阪の居住環境の悪さから、
阪神や阪急の郊外への沿線開発などもあって、
昭和6年ごろから「東洋一の健康地」として売り出されました。
3)建築協定と地区計画
当初の主体は株式会社六麓荘でしたが、
戦後できた町内会が参加し町独自の景観保全の仕組みを運営してきた。
具体的には町内会規約でもある「建築協定」の1985年(昭和60年)の制定であった。
建物の敷地や構造、用途などを規制して良好な住環境を維持させるものだった。
つぎに阪神・淡路大震災後、全壊家屋が31棟の被害が出た。
更地化から相続問題での乱開発が懸念され、危機感をいだいて芦屋市と法的拘束のある、
まちづくり協議会が主体になって2006年「地区計画」が決定された。
4)町並み
設立時に出土した多くの花崗岩が宅地造成や石垣に使われて、
石垣の上にはアカマツが植栽されたり、
住宅地の景観が決定付けられてきた。
さらい花崗岩は石橋や庭石に活用され、
後背地の剣谷から湧出するドンドン川との一体庭園化を目指した。
現在では阪神間の最高級住宅地としての評判を得ている、
一方ではやれ町内会費が年50万だとか、400坪以上の敷地でないとだめとか、
これは事実ですが、都市伝説っぽい風評ややっかみがあるようですね。
余談ですが、芦屋に在住した身の白州次郎氏や在原の業平などは、
もっと今の阪急電車より南側の海に近い土地に住んでいた、
当時のエスタブリッシュメントやセレブリティの時代とは少し羽振りが違いますね。
昔から、天皇家や貴族、またGHQなどの指導者層が
別荘や遊び場としていち早く押さえた土地は、
やはり風光明媚で水の美味しい良い場所ですね、今でも。
※参考:芦屋学研究会編「芦屋の風」2014.1創刊号「六麓荘の形成と変遷」から