エンバ中国近代美術館|奥池町

659-0003-12-1|エンバ中国近代美術館

 

住所表示 〒659-0003 兵庫県芦屋市奥池町12番1号

 

毛皮のエンバの創始者・故上野藤次郎氏が仕事で往復した中国で、

 

清朝から現代までの景徳鎮の陶磁器、書画、刺繍、工芸品など1万点以上を収集。

 

1980年に風光明媚な奥池町に美術館を開館しました。

 

清朝の刺繍の展示がすばらしいそうです。

芦屋モダニズム|芦屋っぽい風景

芦屋モダニズム|芦屋っぽい風景

 

芦屋っぽい風景があるのか、無いのかのベースには
大正年間から流れる「芦屋モダニズム」(阪神モダニズムとも言われるのかも)があります。

 

芦屋に流れていた「芦屋モダニズム」について、
参考書籍が芦屋市立図書館にあったので閲覧し感じたところを投稿してみました。

 

「芦屋の文化村」

大正年間、あの小林一三翁が開発した宝塚劇場や
阪急電車沿線と阪神電車沿線が競うように、

 

当時神戸市に属した深江村から芦屋にかけて
多くの富裕層が別荘や住宅をつくり移住してきました。

 

建築家吉村清太郎が設計した、「芦屋文化村」
緑の芝生に囲まれた洋館建ての貸別荘群でした。

 

ここにはロシヤ革命から亡命してきた
音楽家や芸術家が集まってきたのです。

 

当時著名なアレクサンダー・ルーチンなどの門下生が集まって
西洋音楽が伝わる国際交流の場となったようです。

 

ヴァイオリニストのモギレフスキーや芦屋出身の
有名ヴァイオリニスト貴志康一(きし・こういち)の師であったウェクスラー。

 

ピアニスト、神戸女学院音楽部教授のフチェフ、声楽家のカラスロヴァ、
また日本初のオーケストラであった宝塚交響楽団の指揮者ヨセフ・ラスカなどが、
外国人向けの「芦屋文化ハウス」に集まりました。

 

ずいぶん重みがあるんですね、軽井沢や田園調布と並びますね、どうでしょう? 😛

 

また音楽以外の文化面でも大勢の文化人を育ててきたようです。

 

芦屋では文豪では細雪の谷崎潤一郎、作家富田砕花、洋画家小出楢重、歌人高濱虚子、登山家藤木九三などの文化人たちが住むことによって、

 

瀟洒な洋館、風光明媚な街、富裕層の多い街に文化の華が開いたのです。

 

個人所有の動物園もあったそうです。

 

これの流れや影響もあって、富裕層が暮らす六麓荘町や涼風町のベルポート芦屋のプライベートマリーナなどの町並みが整備されてきたのでしょう。

 

また阪神間でも同じような潮流で、神戸なら六甲山や

 

西宮市なら遊園地香枦園甲子園球場阪神パーク宝塚市なら宝塚劇場などが文化や歓楽、スポーツなど相互にモダニズムが勃興したのでしょうね。

 

※参考:「業平と芦屋100浪漫」から

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

城山 | 芦屋の伝説

659-0081|城山|芦屋の伝説

城山は芦屋市の北部にあります。

むかしここに鷹尾城があったのです、また江戸時代には大阪城築城のための花崗岩を賦役についた大名が切り出しました。

切り出した石は宮川の河口から船で大阪湾を経て、大阪城の建設現場に運ばれたのでしょう。

戦国時代にはこの城山の鷹尾城や芦屋川を戦場にした激しい争いもあったようです。

このあたりの話しは刻印石の投稿ページに書いてあります。

 

アイキャッチ画像は開森橋から上流の遠望で、中央が芦屋川に架かる開森橋、左の山が城山、右の山が奥山です。

マンションは芦屋川左岸にできたシャンポール芦屋川です。

 

芦屋川のさくらは芦屋一番の桜の名所でもあります。

 

西国橋|芦屋の伝説

659-0028-1 西国橋|芦屋の伝説

西国橋ここ打出小槌町にあり、宮川に架かった小さなこの「西国橋」が京の都と芦屋を結んだ西国街道なのです。

山陽道とも呼ばれて、九州の大宰府と京を繋いだ国道でした。

西宮から打出小槌町で付近で本街道と浜街道に分かれます。

ここ打出小槌町でには昔一本松の老木があって、参勤交代の行列もここで一服したそうです。

いまも宮川の西国たもとには地蔵堂がのこり、黒いのら猫がのんびりとうたたねをしています。

この近くにはガーデニングの二楽園やロイヤルホストがあります。

昔大きな市場もこの二楽園あたりにあったそうです。

 

※参考「業平と芦屋100浪漫」

 

 

刻印石|芦屋の伝説

659-0027-1 刻印石|芦屋の伝説

宮川べり、若宮町と宮川の道路沿いにある小さなスペースに「若宮街かどひろば」の標識があります。

この石垣を形成している大きな岩石が刻印石です。

江戸時代の初め、徳川氏が造り替えた大阪城の石垣用に、

芦屋の裏山である六甲山系の花崗岩を切り出して、

宮川の河口から大阪湾に輸送した往時の遺物ですね。

岩石の刻印には福井藩の松平家紋、萩藩の毛利家家紋など各種あります。

当時は城山岩ヶ平方面から切り出されたとされています。

 

そうそう城山というのは、ここには芦屋唯一の城である鷹尾城のことです。

戦国時代、細川隆邦の軍と細川澄元軍が芦屋川や鷹尾城で激しく争っていました。

高国側の瓦林政頼は鷹尾城に立てこもっていた。

そこへ澄元軍の河島兵庫助が16歳の息子・松若丸を連れて投降し、髙国側が勝利。

褒美で父は鷹尾城、息子の松若は西宮の越水城で政頼に仕えていたそうです。

その後父は裏切りの汚名で自害し、それを聞いて駆けつけた松若丸も捕らえられ、

西宮の六湛寺(ろくたんじ)で惜しまれながら自害させられたのです。

辞世が「父に我 つかふ願も 三瀬川 ともに越ゆべき 道のうれしさ」。

松若は聡明で歌も良くしたと伝えられています。

岩ヶ平や越水、六湛寺など西宮市の現在の地名が出てくるんですね。

 

※参考「業平と芦屋川や100浪漫」

 

これらの石は良くクラシックなマンションの石垣などにもつかわれていますね。

 

芦屋では2号線沿いの春日町のマンションの南側部分がそんなのに近い大石で構えを守っています。それではないでしょうか。

 

ところが最高級なマンションでも最近は薄っぺらなタイル貼りが多いですよね、残念。