659-0022-3-21 親王寺 | 打出町
住居表示 | 〒659-0022 兵庫県芦屋市打出町3番21号
阿保山親王寺、国道43号線のすぐ北側にあります。
言い伝えによると在原業平の父君である阿保親王がこの地に住んでいたとことから、
1500年前の平安時代に建設されたそうです。
時代が江戸時代になり、
阿保親王の子孫である長州(山口県)の毛利の殿様が
参勤交代の折にはここに立ち寄って
宝物を贈ったりされたそうですよ。
芦屋市の中央部分にあたる地域です。
市役所、警察署、税務署や教育文化センター、図書館・美術博物館、谷崎潤一郎記念館、芦屋公園があります。
またJRや阪神電車が横断しています。
JR芦屋駅には新快速電車が止まります。
また阪神芦屋駅(特急停車駅)と打出駅があります。
精道小学校区、宮川小学校区で精道中学校区に該当します。
阿保山親王寺、国道43号線のすぐ北側にあります。
言い伝えによると在原業平の父君である阿保親王がこの地に住んでいたとことから、
1500年前の平安時代に建設されたそうです。
時代が江戸時代になり、
阿保親王の子孫である長州(山口県)の毛利の殿様が
参勤交代の折にはここに立ち寄って
宝物を贈ったりされたそうですよ。
ここは打出小槌町を通る
旧西国にある「西国橋」です。
宮川にかかっている橋のたもとには、
このあたり黒猫や三毛猫などが
たむろ?しています。
そのせいかパワースポット感があって、
昔からの祠もあります。
「芦屋の伝説」もご覧ください。
芦屋の浜に流れ着いた「ぬえ」の塚ですね。
ぬえの字は「鵺」で、夜の鳥です。
夜な夜な宮中の屋根の上に降りていたそうですね。
浜芦屋町の芦屋川沿いの松林が自慢の芦屋公園の中にあります。
兵庫県芦屋市平田町1番19号になります。
別章の「芦屋の伝説」もご覧ください。
ここ打出小槌町にあり、宮川に架かった小さなこの「西国橋」が京の都と芦屋を結んだ西国街道なのです。
山陽道とも呼ばれて、九州の大宰府と京を繋いだ国道でした。
西宮から打出小槌町で付近で本街道と浜街道に分かれます。
ここ打出小槌町でには昔一本松の老木があって、参勤交代の行列もここで一服したそうです。
いまも宮川の西国たもとには地蔵堂がのこり、黒いのら猫がのんびりとうたたねをしています。
この近くにはガーデニングの二楽園やロイヤルホストがあります。
昔大きな市場もこの二楽園あたりにあったそうです。
※参考「業平と芦屋100浪漫」
宮川べり、若宮町と宮川の道路沿いにある小さなスペースに「若宮街かどひろば」の標識があります。
この石垣を形成している大きな岩石が刻印石です。
江戸時代の初め、徳川氏が造り替えた大阪城の石垣用に、
芦屋の裏山である六甲山系の花崗岩を切り出して、
宮川の河口から大阪湾に輸送した往時の遺物ですね。
岩石の刻印には福井藩の松平家紋、萩藩の毛利家家紋など各種あります。
当時は城山や岩ヶ平方面から切り出されたとされています。
そうそう城山というのは、ここには芦屋唯一の城である鷹尾城のことです。
戦国時代、細川隆邦の軍と細川澄元軍が芦屋川や鷹尾城で激しく争っていました。
高国側の瓦林政頼は鷹尾城に立てこもっていた。
そこへ澄元軍の河島兵庫助が16歳の息子・松若丸を連れて投降し、髙国側が勝利。
褒美で父は鷹尾城、息子の松若は西宮の越水城で政頼に仕えていたそうです。
その後父は裏切りの汚名で自害し、それを聞いて駆けつけた松若丸も捕らえられ、
西宮の六湛寺(ろくたんじ)で惜しまれながら自害させられたのです。
辞世が「父に我 つかふ願も 三瀬川 ともに越ゆべき 道のうれしさ」。
松若は聡明で歌も良くしたと伝えられています。
岩ヶ平や越水、六湛寺など西宮市の現在の地名が出てくるんですね。
※参考「業平と芦屋川や100浪漫」
これらの石は良くクラシックなマンションの石垣などにもつかわれていますね。
芦屋では2号線沿いの春日町のマンションの南側部分がそんなのに近い大石で構えを守っています。それではないでしょうか。
ところが最高級なマンションでも最近は薄っぺらなタイル貼りが多いですよね、残念。