659-0027-1 刻印石|芦屋の伝説
宮川べり、若宮町と宮川の道路沿いにある小さなスペースに「若宮街かどひろば」の標識があります。
この石垣を形成している大きな岩石が刻印石です。
江戸時代の初め、徳川氏が造り替えた大阪城の石垣用に、
芦屋の裏山である六甲山系の花崗岩を切り出して、
宮川の河口から大阪湾に輸送した往時の遺物ですね。
岩石の刻印には福井藩の松平家紋、萩藩の毛利家家紋など各種あります。
当時は城山や岩ヶ平方面から切り出されたとされています。
そうそう城山というのは、ここには芦屋唯一の城である鷹尾城のことです。
戦国時代、細川隆邦の軍と細川澄元軍が芦屋川や鷹尾城で激しく争っていました。
高国側の瓦林政頼は鷹尾城に立てこもっていた。
そこへ澄元軍の河島兵庫助が16歳の息子・松若丸を連れて投降し、髙国側が勝利。
褒美で父は鷹尾城、息子の松若は西宮の越水城で政頼に仕えていたそうです。
その後父は裏切りの汚名で自害し、それを聞いて駆けつけた松若丸も捕らえられ、
西宮の六湛寺(ろくたんじ)で惜しまれながら自害させられたのです。
辞世が「父に我 つかふ願も 三瀬川 ともに越ゆべき 道のうれしさ」。
松若は聡明で歌も良くしたと伝えられています。
岩ヶ平や越水、六湛寺など西宮市の現在の地名が出てくるんですね。
※参考「業平と芦屋川や100浪漫」
これらの石は良くクラシックなマンションの石垣などにもつかわれていますね。
芦屋では2号線沿いの春日町のマンションの南側部分がそんなのに近い大石で構えを守っています。それではないでしょうか。
ところが最高級なマンションでも最近は薄っぺらなタイル貼りが多いですよね、残念。