芦屋史と人
芦屋市の名前が表に出て来たのは、そんなに古くはないようです。
1.芦屋史
『摂津の国風土記逸文』で今の芦屋周辺が白砂青松の美しい浜辺であったとあります。
古来歌や能楽また浮世絵に描かれてきました。
芦屋の名前の起源は、このあたりを古来芦屋氏族が勢力を持っていたとか、
葦(芦、ヨシともいう)が生い茂る湿地帯だったからなどの説があるようです。
古墳時代(3世紀後半~6世紀末)、芦屋の漢人(あしやのあやひと)・芦屋蔵人(あしやのくらひと)たちが芦屋の開拓に関わったとの記録もあるようです。
律令制のころ、となりの夙川(西宮市)から生田川(神戸市)にわたる地域を
菟原(うばら)郡といわれ、現在の芦屋は葦屋郷と加美郷だったようです。
戦国時代の終わりに打出・芦屋・三条・津知ができました。そして1769年には
芦屋と打出は天領になり、三条と津知は尼崎藩に属し、やがて明治維新となります。
1871年に4村が合併して兵庫県武庫郡精道村が生れました。
そして昭和に入り、1940年精道村から芦屋市になり、現在に至ります。
(出典①)
2.芦屋史の人
1)猿丸太夫(さるまるだゆう)
奈良時代後期から平安時代初期の歌人(三十六歌仙の一人)で、百人一首では
「奥山に 紅葉ふみわけ なく鹿の 声聞く時ぞ 秋は悲しき」
芦屋市北部の奥山地域がこの奥山なんでしょうか。
また阪急芦屋川駅の芦屋川を挟んだ線路沿いに墓地がありますね。
2)在原の業平(ありわらのなりひら)
親王塚町にあるのが阿保親王塚です。
この阿保親王は51代平城天皇の嫡男でしたが次の天皇には儚くもなれなかったのです。
この阿保親王の第五子がこの業平(825年生)です。
伊勢物語の昔男ありきの本人?で、稀代の反体制イケメンで女性好き、和歌の名手です。
芦屋には業平町や歌碑のある業平橋に名をとどめています。
世の中にたえて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし
(在原の業平)
浮名には小野小町(うそのよう)や皇太后となった二条后(高子)、
伊勢斎宮恬子(やすこ)内親王など禁忌の恋で時代の寵児でしたが、悩みも多い青年でした。
全国区で人から神になった政治的悩みが多かったあの菅原道真とも
若いころから先生としたう親交があったのも興味深いですね。
同時に当時は大地震や大津波や富士山の大爆発などによる大飢饉の時代でした。
ここ芦屋は山と海に囲まれた風光明媚、
また瀬戸内気候で温暖で災害も少ない土地だったのですが、
阪神大震災や、実は昭和でも阪神大水害なども発生していました。
3)公光(きんみつ)
芦屋の里の若者が公光でした。今の芦屋市公光町あたりに住んでいたといわれています。
業平が主人公の伊勢物語が大好きで業平にあこがれていました。
夢に業平があらわれて京の雲林院にいると告げられ、
そこに出向いた夜、老翁が現れて、
業平から伊勢物語にまつわる話しが聞けるであろうと言って姿を消しました。
夜半に業平の魂が人の姿を借りて現れ楽しい話しや、舞や歌で公光を楽しませました。
との話しで世阿弥の能「雲林院」となったのです。
月若町には業平神社と公光といっしょの洞(ほこら)が残っています。
4)月若(つきわか)と藤栄(とうえい)
鎌倉時代、名将軍北条時頼の御代、西芦屋村の芦屋藤左ヱ門という大地主がいました。
この弟である藤栄に幼い息子であった月若の後見を良く頼んでなくなりました。
ところが叔父の藤栄は月若が相続した土地を奪った上に月若を追い出してしまったのです。
月若は芦屋浜の漁師として惨めな生活を送っていたのです。
そんな貧しい家に時頼の父、前の将軍最明寺入道時宗が諸国を旅する途中、
この芦屋に来て一夜の宿を頼んだのでした。
高貴な面差しの月若を見て不審に思いなぜこんな暮らしを問いただしました。
藤栄の悪事を知った前の将軍時宗は舟遊び中の藤栄を諭して月若の土地を取り戻すのでした。以降、藤栄は月若を助けて繁栄したとの説話があったのです。
月若町はこの月若からとった町名です。
5)阿保親王
芦屋市親王塚町にある宮内庁管理の阿保親王塚があります。
周囲365M の円墳です。阿保親王は在原業平の父君です。
奈良平城京の天皇の直系でしたが、時の後継になれず、
恨みを持って亡くなったといわれます。
時の政権は首都奈良ではまずいのか、
遠く離れた芦屋の地に阿保親王を葬ったのがこの古墳なのでした。
業平が芦屋の業平町に住んでいたのもこの父の墓墳があったからではと考えますね。
ここからは、旧き良き芦屋モダニズムの旗手、いや中心となって活躍された方々です。
6)富田砕花(とみたさいか)
1890-1984、 歌人
芦屋市宮川町に居住、現在は「富田砕花旧宅」として芦屋市が保存、開放しています。
1890年盛岡市で生まれ、18歳の時与謝野鉄幹、晶子主宰の新詩社に参加、
『明星』に短歌を発表しています。
石川啄木の死を悼んで「Going to peaple」というエッセイを発表しました。
大正に入り、療養で芦屋に来ました。ここで結婚し、
現在宮川町にある「富田砕花旧宅」に住んでいました。
詩作を中心に、全国的に活躍しました。
精道中学校などの校歌なども多く作り、兵庫県文化の父とよばれました。
7)高濱虚子(たかはまきょし)
1874-1959、 俳誌「ホトトギス」主宰 歌人
虚子記念文学館が平田町にあり、また月若公園には高濱虚子の碑があります。
松山市で生まれ、京都第三高校から川東碧悟桐と共に仙台第二高校に進んだ後 、
文学を志し、東京で『ホトトギス』の主宰者となりました。
晩年を過ごした小諸には「虚子記念館」とともに、
芦屋にも孫の稲畑汀子さんが「虚子記念文学館」を設立し、
ホトトギスの俳句の火を連綿と続けておられます。
咲きみちて こぼるる 花も無かりけり 虚子
8)小出楢重(こいでならしげ)
1887-1931、画家、文筆家
大阪は長堀橋の老舗の薬屋に生まれ、東京美術学校を卒業し、
フランスに留学、フォービズムの影響も受けました。
鮮やかな色彩とタッチが大胆です。
1926年から芦屋市川西町に住み、谷崎潤一郎の「蓼食う虫」の挿絵を担当、
「裸婦の楢重」と呼ばれるほどの裸婦の名作が現存しています。
また文筆家として多くの随筆集も多く、ことに「めでたき風景」での洒脱な表現からは、
当時の旧き良き時代の文化人の思いが良くあらわされています。
9)谷崎潤一郎(たにざきじゅんいちろう)
1886-1965、小説家
関東大震災後、芦屋・西宮・岡本などを離婚再婚を何度かやりながら転々、
芦屋市では宮川町に住んでいました。
この投稿を書いているときに、ちょうどNHK歴史秘話ヒストリアがTV放映され、
この谷崎潤一郎の半生が描かれていました。
なんと壇蜜が3度目の美貌の奥さん松子役で出演、NHKも粋なことをしはる~でした。
昭和の暗い時代、太平洋戦争の前後のころは、芦屋時代に松子夫人やその商家の妹たち3人とも住んでいました。
『細雪』の中では大阪の商家の3姉妹の暮らしや情感を、また関西や芦屋の風土や暮らしを季節の移ろいと共に、軍靴統制をかいくぐって書き上げた大作でした。
良く言われる「大阪で儲け、神戸に住んで、京都で遊ぶ」の成功した商家のとおりの生活だったと思います。
幸いに、芦屋を世に知らしめた文豪の貴重な諸資料が展示される「谷崎潤一郎記念館」が浜町にあります。
『痴人の愛』や『鍵』などの問題作も発表し、こんなに女性のたおやかさ、美しさを書きとどめた作家はいないでしょう。
また「源氏物語(口語訳)」なども発表しtれいます。
あの「細雪」では芦屋の情景も描かれています。
細雪の3姉妹は大阪商人がいういとはん、なかいとはん、こいさんですね。芦屋夫人の源流なのかも。
芦屋市伊勢町には谷崎潤一郎記念館があります。
10)藤木九三(ふじきくぞう)
1887-1970、登山家
芦屋ロックガーデンの名付け親が、藤木九三(ふじき くぞう)さんです。
丹波出身、早大卒、朝日新聞社入社、第1次世界大戦で従軍記者として活躍、その後RCC(ロッククライミングクラブ)創設。
高座(こざ)の滝の上の方に、六甲山独特の花崗岩が侵食されて巨岩が異形を残すのをみて、彼が「ロックガーデン」と名づけたのです。
今でも山男たちのトレーニングの場として日本アルピニズム発祥の地となりました。
この高座の滝の上に藤木氏のブロンズレリーフがあります。
登山の書籍も多数出版、著名な登山家、山岳詩人として有名なんです。
11)田中千代(たなかちよ)
1906-1999、服飾デザイナー
男爵家の長女として生まれ、28歳でカネボウ顧問になり、翌年には阪急百貨店婦人服部の初代デザイナーになり活躍。
38歳で田中千代学園設立し、多くのデザイナーを輩出。1956年には東京に田中千代服飾学園を設立しました。
1947年から大原町に有った田中千代学園の跡地には、マンションが建っており、校門前にあった大きなソテツが残されています。
12)中山岩太(なかやまいわた)
1895-1949 写真家
福岡県出身、1918年東京美術学校写真家卒、農商務省から※カリフォルニア大学で学んだ後、ニューヨークで「ラカン・スタジオ」を開く。
1926年夫人とフランスへ、マン・レイやキキ夫人との交流、藤田嗣治、エンリコ・プランポリーニと知り合う機会があったようです。
1927年帰国し前田町でパリのアトリエを真似た中山写真スタジオで「阪神芸術家クラブ」の会場となって文化の発信基地でした。
またハナヤ勘兵衛と「芦屋カメラクラブ」を結成しました。
妻正子さんは芦屋市初の女性議員で才色兼備の妻でモデルでもあったようです。
13)ハナヤ勘兵衛(はなやかんべい)
1903-1991 写真店、写真家
大阪市の江戸堀で誕生、本名桑田和雄は17歳で写真家を目指し、22歳で上海へ、26歳で芦屋に写真材料店を開店し、ハナヤ勘兵衛と名乗りました。
欧米のモダニズムを吸って帰国した中山岩太ら7人と前出の「芦屋カメラクラブ」を結成、新興写真運動の中心となりました。
関西学生や全日本学生の写真連盟を結成、神戸大の初代写真部顧問でもありました。
「芦屋写真サロン」や店舗は今も2号線沿いの前田町で3代目によって継承されています。
※参考:「業平と芦屋100浪漫」より
14)広瀬勝代(ひろせかつよ)
、1895-1984 声楽家、社会運動家
近代芦屋文化の母とよばれる広瀬勝代は椿姫を得意とした声楽家でした。
家では楽器、絵画、手工芸、華道、水泳などを、また先祖は医者や儒者、画家を輩出した豊かな素地を吸収し継承して育ったそうです。
終戦の年12月に「芦屋婦人会」が結成され、請われて初代会長になられました。
敗戦で打ちひしがれた市民の再建への応援のため、城山には毎日12畳大の日章旗を掲揚し、復員兵にはJR芦屋駅で湯茶の接待をつづけました。
米軍のGHQに対しても「凛」と応対し、彼らからも彼女の博愛精神と見識に脱帽されたといいます。
父親が戦死した子供たちのため「父の日」を提唱し、世界で最初に黄体ホルモンを発見した産婦人科医のご主人の影響もあり、「売春防止法」や「敬老の日」の提唱者でもありました。
またJR芦屋駅に快速電車停車を請願し実現。
初代の兵庫県夫人会長、つぎには「国際連合教育科学文化機関」(現ユネスコ)の創設にも尽力、芦屋ユネスコ協会初代会長として活躍、当時の米国ライオンズマンションシャワー大使の要請で全米ユネスコ大会にも参加しました。
今でもご活躍の娘の広瀬忠子さんは秘書として同行されています。
まだまだ封建的な時代に、自由と博愛の精神で、女性の地位向上に尽力された偏見の無い真の「芦屋夫人」だったのです。
15)白州次郎(しらすじろう)
、1902-1985 「マッカーサーを叱った男」
「侍ジェントルマン」といわれた白州次郎は芦屋に育ち、神戸一中(現、神戸高校)等でサッカーに熱中しキャプテンまで務めた。
その後、大学は英国のケンブリッジ大に留学した。
次郎の祖父・白州退蔵は三田藩九鬼家の家老職だった人物、藩校の教授からとりたてられ、先見の明で。甲冑を全廃して洋式銃を配備、また「神戸ビーフ」として知られる三田牛の飼育を奨励したといわれる。
白州の父文平(退蔵の長男)は3兄弟で、日本の野球の黎明期に野球の名選手として鳴らした。
その後文平は神戸に出て「白州商店」を設立、綿花の取引で商機を捉えて大もうけした。神戸の綿花貿易商はどこも羽振りが良かったそうです。
大富豪の散財は一流で、芦屋や東灘・青木、香露園そして伊丹と豪邸をつぎつぎと造った。いずれも2500坪から1.8万坪で大正初期の大隈重信邸が1.8万坪、団琢磨が1.3万坪、渋沢栄一が9800坪に負けていなかった。
さらに洋画や日本画、壷などのため美術館も設けたそうです。
白州次郎は神戸生まれ、芦屋育ちで芦屋の精道小学校に通ったが、ゴンタ坊主だったようですね。そのご御影師範付属小学校の高等科入学、ここから後世ノーベル賞を得た江崎玲於奈、野依良治氏が出ている)。
御影師範学校のサッカー部は当時日本一の強さを誇っており、次郎はゴンタのエネルギーをこれらサッカー(蹴球)やラグビーに入れ込んだと思える。
このカーキ色の制服を着た神戸一中生の次郎は、当時日本では珍しい1919年式の米製高級オープンカー、ペイジ・グレンブルックを乗り回して、ハイカラの街神戸では、この成金息子のことが有名になって小説の題材にもなっていたそうです。
次郎のイギリスでの留学先は、まずロンドン大学ユニヴァーシティ・カレッジに入学している。ここは幕末から伊藤俊輔、井上馨、五代友厚、など幕府から薩長まで呉越同舟で学びあったようです。
1年間ここロンドン大学で学び、経済学者ケインズの講義も受けたようで、寮生活の中で英流ジェントルマンシップを吸収したようです。
次郎の英語力は祖父の退蔵が神戸女学院の創立にかかわり、そこの外国人教師が下宿していたり、父・文平もも欧米留学経験があって、英語力については十分すぎる家庭環境だったようです。実際一中の授業中に英語の本を読んでいてしかられたほどだったようです。
大学時代にはドイツ人の寮生から「日本には自動車など無いだろう」と馬鹿にされたこともあって、ベントレーを駆って、ヨーロッパを縦断し、当時の欧州の歴史の舞台を直視できたのでしょう。
突然1928年白州商店が倒産し、不本意ながら日本に帰国した。翌年次郎は樺山正子と結婚した。
1928年当時の実家は伊丹の2万坪の豪邸で、得意の英語やケンブリッジの交友関係から、満州事変前夜の暗い時代、貿易ビジネスに関わり、日本水産の役員となった。
このころに英国を往復する中から駐英大使の吉田茂と交友を深めたそうです。
友人の伊藤次郎氏が慶応から日産チームのラグビー部員となっており、白州は「オレにもやらせろ」とオール日産のフルバックで大きな声で号令していたそうです。
その後ケンブリッジのラグビーチームが来日し、次郎は関西をはじめ全日本などの構成チームの練習から試合また歓迎会・送別会と物心両面でバックアップしたのが、現在の日本ラグビー協会の淵源となったのではと思います。
当時秩父宮ほどスポーツ好きの皇族は珍しかったのですが、ラグビーを観戦した面白さからラグビーファンとなって、のちに日本ラグビー協会の会長となったのです。
そして敗戦直後、次郎は英語力と「サムライ」精神もあり請われて吉田茂の顧問となって、GHQの憲法草案をを日本語に1週間で翻訳した。「天皇は象徴」や「9条戦争放棄」なども次郎たちが新生日本のために手がけたものであった。
1948年、極東国際軍事裁判(東京裁判)あり「平和に対する罪」「人道に対する罪」などの罪状でA級戦犯7名は絞首刑にされた。
1951年には次郎たちがお膳立てしたサンフランシスコ平和条約が吉田茂によって署名された。
マッカーサーを叱った男白州次郎は1985年逝去する。
(以上)
参考引用させていただいたのは出典①から、「白州次郎とスポーツ~彼は、なぜサッカーをやめたのか~」です。高木應光氏の著作は63ページ、2年間の労作です。参考文献はなんと248点にも及んでいます。
白州次郎と正子夫妻、芦屋モダニズムにも流れていく大正浪漫の華やかさが感じられますね。
※出典①芦屋学研究会紀要『芦屋の風』創刊号(2014.1.1 芦屋学研究会編)
出典②「業平と芦屋100浪漫』(制作・芦屋100選浪漫)
3.芦屋年表
芦屋に関係のある年を歴史年表にしてみました。
参考文献:「あしや子供風土記、第6集、芦屋の地名をさぐる」(財団法人 芦屋市文化振興財団編)