「いつ帰ってきたがけ」、「元気でやっとったっけ」白崎先生の第一声である。糖尿病の血糖値が下がって祖母が倒れ、叔父が胆嚢炎で緊急入院したとの知らせで帰省した。
私が生まれ育った富山県高岡市伏木町は、大伴家持が越中国主となって赴任していた奈良時代(西暦790年頃)は、現在の富山県の中心地であった。「海幸多き奈古の浦、はるかに望む丘の上、かの万葉の歌ひじり、過ぎし昔をしのぶかな」私が通った古府小学校の校歌にもあり、「万葉の地」としての伏木には、当時の面影がたくさんある。
白崎先生は、その古府小学校の4年から6年までの担任だった。
私は帰省すると、ハリーとルナを散歩がてら、まず二上山の麓にある甥を訪ね、祖父のお墓に手をあわせ、伏木中学校時代の友人宅に寄って、叔父の家の玄関でお茶をもらい、最後に「白崎幸子」先生のお宅に必ず立ち寄る習癖がある。なんの連絡もなく、突然に、朝7時台に訪問する気まぐれな私を暖かく迎えてくれる故郷がそこにある。
今回の帰省は、5月15日に、この町で行われる「けんか山車」祭りに合わせた家族の大移動である。家族の大移動とは、私とかみさん、娘2人にハリー(シベリアン・ハスキー:♀13歳)、ルナ(ラブラドール・リトリーバ:♀9歳)、チャゲミ(捨て猫:♀年齢不詳)の3匹、愛用の自転車をルーフに積んで関越・北陸自動車道をひた走ることなのだ。
(右上写真は上町(笹りんどう)の山車)
伏木町の「けんか山車」は、伏木神社の春季祭礼として1814年(文化11年)から行われているという。約8トンの山車に、360個の提灯をつけた宵山どうしが、50m近くから全速力でぶつかりあい、地響きをたて、観衆がどよめき、はなれては、またぶつけ、お互いが力尽きるか、どちらかが「まいった」を入れるまで、「かっちゃ:ぶつけることの伏木弁」は夜遅くまでつづくのである。
(右中央写真は宵山に出る前の「けんか山」の長手部分)
話は変るが、井上ひさしのニホン語日記に“方言”をテーマにした「ヒギンズ教授と坊つちゃん」の章がある。以下にその一部を紹介したい。
世の中にはできるだけたくさんの話しことばが存在していた方がいいと筆者は考えている。軽薄な言い方になるがその方が「おもしろい」と思う。漱石の『坊つちゃん』の名場面も東京方言と松山方言とが対立するから愉快なのだ。
《……得意になって、べらんめい調を用いてたら、一番前の列の真中にいた、一番強そうな奴が、いきなり起立して先生という。そら来たと思いながら、何だと聞いたら、「あまり早くて分からんけれ、もちっと、ゆるゆる遣って、おくれんかな、もし」といった。おくれんかな、もしは生温い言葉だ。早過ぎるなら、ゆっくりいってやるが、おれは江戸っ子だから君らの言葉は使えない、分からなければ、分かるまで待っているがいいと答えてやった。》(岩波文庫)
この後、井上ひさしは『マイ・フェア・レディ』の原作、バーナード・ショーの『ピグマリオン』にあるヒギンズ教授の物語りを“方言”から考察して、以下のように結んでくれている。
さっきできるだけたくさんの方言があった方がおもしろいと書いたが、それでは言葉が乱れて困るではないかと反論なさる読者もおいでになるかもしれない。そこであわてて注釈をつけておくと、さまざまな話しことばの氾濫が許されるのは、その底にしっかりした書きことばが存在するからである。小さくはこの本の一つ一つの記事の文章、大きくは詩人や小説家や劇作家たちの文章、それらの文章に、練り上げられた書きことばの勁さ美しさ正確さがあれば、わたしたちの日常の話しことばが、どんなに多様で無茶苦茶であっても構わない。きちんとした書きことばがが乱脈な話しことばの重しになるからだ。
この井上ひさしのニホン語日記、ニホン語日記Ⅱは、週間文春に連載されていた記事を文庫本にまとめたものである。第二次世界大戦、高度経済成長、そしてバブル崩壊を経て、再生を目指す我々日本人に「日本語」という文化を考えさせてくれるエッセイであり、各々の記事の最後にニヤッとさせられる軽妙さがいい。
「あんたも、読んでみられか」
(右写真は山車と娘たち)