■  2000年10月9日(月) 祖父の七回忌と「アーネスト・サトウの写真集」


Graffiti: Beauty is in the eye of the beer holder (beholder).

体育の日の三連休を利用して、富山に帰省した。

祖父の七回忌が昨日行われ、親戚縁者が久しぶりに集まった。

このような行事が終わった後は、必ずお袋さんが寝こむことになる。

息子、孫、従兄弟が集まったハイな状態から、皆が散り散りに帰ってしまい、祖母との日常の暮らしに戻った直後が特に危ない。

実家のある伏木を後にして、必ず寄る富山のK夫妻のお店に顔を出した。

"天下堂洋品店"の二階に上がって行くと、がっしりした、やさしさにあふれるK氏が出迎えてくれる。

看板娘の「なっちゃん」がコーヒを運んで来てくれる。

10分くらいの時候の挨拶と近況をお伝えして、お店を後にした。

K氏が撮影したモノクロの「東京駅の窓から」と、「能登の青い空:テント」を紹介したい。

能登の青い空:テント

東京駅の窓から

帰り際に目に止まった写真集が気になり、川越に帰ってから早速K氏にメールをした。

K氏から頂いたメールを以下に紹介する。

 

メールありがとうございます。

私も、短い時間でしたが、大変、嬉しく楽しく感じました。

お問い合わせのアーネスト サトウについてお知らせします。

 

<略歴>

1927 3月2日日本人父とアメリカ人宣教師の母の間に、東京本郷に生まれる

1949 早稲田大学法学部卒

1951 オクラホマ州立大学に入学 音楽、音楽史専攻

1952 コロンビア大学へ転入 美術史専攻

1956 三菱銀行ニューヨーク支店に就職。ライカ二台、レンズ四本を買う。

1958 国際連合から委託をうけ記録撮影。ニューヨーク美術館に"Bird Flying Away"が収蔵される

1960 「ナショナルジオグラフィック」誌に国連総会の写真が掲載される。報道写真を超えて、人間フルシチョフの写真の評価を受ける

1962 「ライフ」誌特派員として来日

1968 「タイム・ライフ」誌編集顧問に就任京都市立美術大学(現京都芸大)に奉職

1973 同大学教授に就任、橋本文良(版画家、現砺波氏美術館学芸員),森村泰昌(美術家)、木村浩(情報デザイン研究家)らを助手とし、育てる。フランス国立図書館の版画部門に、作品四十点が永久保存される

1980 京都芸術大学美術学部大学院教授に選任される。同大学に大きな暗室を確保

1990 5月12日十二指腸動脈瘤破裂により死去

以上、主なる略歴です。

 

<私見です>

日本の写真家として稀有の作家です。

それまでの写真家が職人であったとすれば日本の写真を国際性を持った芸術までに高めた人です。

とくに、暗室技術は写真術の中の技術ではなく、写真術そのものが芸術表現の一手段として、アーネストに存在し、日常の視覚的認識を削ぎ落としていく表現の中のモダニズムに、対象物の認識の美しさを見ます。

またそれは、モダニズムでありながら、東洋の古典的水墨画の普遍的美に繋がっています。

京都俵屋(旅館)の娘婿、俵屋は現在も日本の良き形を守りつづけている。

アーネストの「モダニズム」は、その子弟らが現在第一線で活躍する時なり、開花しつつある。

日本の芸術が日本固有の形から解き放されて、時間、空間を超えて日本固有の精神を踏また普遍的なものと昇華され、モダニズムを確立。

日本の精神に普遍性を国際的に認識される礎を築いた業績は大きい。

現存した日本の写真家では、唯一芸術家と呼べる人と思います。

カサ

このK氏、そしてK氏が経営する天下堂洋品店には、いい意味での「こだわり」が感じられる。

富山と東京という"距離"があっても、電子メールというツールが、この「こだわり」を多少なりとも運んでくれて、私の眠っている感性を時々は刺激してくれる。

しかし、スピードと手軽さによる電子メールでの情報交換もさることながら、極太の万年筆で書いたK氏の手紙は、ずしりと重い。

「なっちゃん」が結婚するという、一抹の寂しさを感じながら、慌ただしい東京に戻ってきた。

 
 ーつづくー
-P19-


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