■ 2001年7月10日(火)

 WATER BEETLESと富山湾横断プロジェクト


Quote…Unquote: The activist is not the man who says the river is dirty. The activist is the man who cleans up the river. - Ross Perot (U.S. computer industry executive and philanthropist, 1930-)

 2日前の7月8日(日)に富山湾横断プロジェクトが決行された。
 このプロジェクトは、私が最も尊敬する富山市在住のK氏を中心に新開進氏(有限会社マリンセブン代表)等のサポートを得て、カヤックを愛する皆さん全員の協力によって実施された。

 富山湾の海流は、北上する対馬海流が能登半島に沿い富山湾に流れこむので、湾外洋部は東から西へ流れ、湾内沿岸部は西から東へ流れる複雑な構造を持っている。
 確かに氷見の島尾海岸で泳ぐと、随分東へ流される。
 この海流と風も考慮して、今回のプロジェクトは、西の大境鼻から東の黒部荒又までの全行程約35Kmのコースが選択された。
 カヤックの平均時速を5Km/時間として所要時間は7〜9時間というところである。

 このプロジェクトの詳細な情報は「The Club of Water Beetles: 富山市岩瀬入船町82番地 コモン天下堂内 〒931−8302 076-438-7117 Fax 076-437-9870」に問合わせて頂きたい。

 予定された決行日は、7月1日(日)であったが、天候の関係から翌週の7月8日(日)に延期された。
 そのあたりの状況を実況レポとはいかないが、K氏から私宛のメールを添えて紹介したい。

 
= K氏からのメール、2001年6月30日(土)=

 富山湾横断の件、覚えていてくださってありがとうございます。
生憎のお天気で、気を揉んでいるところです。
 インターネットで、海洋気象を検索しても、外洋は出るのですが沿岸と外洋を結ぶ境目の辺りの情報は推測するしかありません。能登沖、佐渡は2〜3メートルの波とのこと。
 今回は予備日を一週間後の7月8日に設定しています。

 私の腹積もりでは明日は、見送ろうと思っています。
 メンバーの気持ちに混乱をきたさないように、このような自然と関わる計画の決断は早くするべきと考えています。

正式名称は、富山湾横断プロジェクトといいます。
 今年はわたしたちのクラブのシーカヤックのメンバーと、私の関係のシーカヤッカーたちで行いますが、来年も出きれば全国に情報を流したいと考えています。その時は知恵をお貸し下さい。
 北日本放送が随行取材をしたいと申し込んでいます。
もしビデオなどが貰えたらお送りします。

 

 ということで、7月8日(日)に延期され実行されたこのプロジェクトの状況は、以下のメールと添付された写真により伺い知ることができる。


 7月8日午前4時25分に氷見大境を漕ぎ出し、条件が絶好で、予定より30分早く 午前10時55分に黒部川河口左岸、荒俣へ着きました。
 川越からもご声援ありがとうございました。

 この日の日の出は午前4時38分だったと思います。

 未明の空あかりを映して、昨夜来の大きなうねりが残る大境を漕ぎ出して間もなく、コンパスが指し示す90°〜95°方向、まさにすすむべき方向の水平線の下が小さく四角い茜色に染まり、なんだろうと思いながら漕いでいると、間もなく靄の上に真っ赤な、これが日本といわんばかりの太陽が現れました。

 その太陽から延びる光の帯が、これが君達の行くべき道だよと指し示している様に思えました。
 その黄金色に輝く一本の道は、私だけに与えられた道。しかし、隣の佐藤君にも、魚崎君にも、村田君にもそれぞれの一本の道が与えられているのです。

 それぞれが自分のカヤックだけに与えられた光の帯を音もなく漕ぎすすんでいきました。 漕いでいる道は別々であっても、それはひとつの太陽に向って・・・

 生憎なのか、運がよかったのか、この日は陸に靄がかかり、対岸の町の夜の名残の灯りも、立山連峰の姿も見えず見えるのは太陽だけ。
 薄赤色に染まった空気の中で、このまま溶けてしまいたいと心がふるえていました。

 午前七時半の頃、湾の真ん中では 四方は全く水平線だけになりました。
 仲間の七艇のカヤックと、先頭を走るナビ船のヨット、オールドシーマンの新開さんの12メーターの漁船だけ。
 時速3ノットを基準に計画を立てていましたが、3.5〜4ノットのペースで、午前8時に到達するはずの中間地点を30分速く通過してしまい、そのままのペースで、ゴールに入りました。

 途中伏木海上保安部の巡視艇が白波を切って走って来て、私たちを視認し速度を落し停泊しスピーカーで「ご苦労様です。異常ありませんか。順調にいっていますか。 それでは無事の航海をお祈りします。ボンボヤージュ」とまた白波を立ててターンして帰っていきました。
 シーマンの世界です。
パドルを立てて見送りました。

 残り八キロほどでようやくゴールの陸地が見え始め、YKKの工場やクレーンのアームが見え、白濁した黒部川の流水が見え始めると嬉しさよりも寂しさの方が大きかったように思います。

 正直に言って、疲れてはいたけれど「もう着いてしまったのか」という呆気無さにどっと疲れて、後はユーラユーラとパドリングしてしまいました。
 おそらく時速2マイルほどでしょう。
 テレビや新聞社が取材に来ていて、人影が見え始めると、若い連中は張りきって漕いでいきました。
 年をとるとそんな事が可愛く見えるものですね。

 着岸は私が一番最後、海岸線は波が打ち寄せていて、私には平気だったのですが、応援の人や見物人達が、大声であっちへ回れ、こっちだこっちだとか、波の切れ間を見て「いまだ!いまいま!漕いで漕いで漕いで」とか叫ぶし、テレビカメラは回っているだろうし、なんだかカッコ悪くって、自分だけで横波にブレージングしながら綺麗に着岸したかったのに、岸に近づいたら、ズボンの裾を捲り上げたおじさん達が波の中に飛んできて、無理やり艇を引っ張り上げてしまいました。
 ありがとう。

 陸へ上がり、皆も疲れきっていましたが、顔は輝き握手をし合っていました。
 そんな景色を久しぶりに見たように思います。
この日はわたしたちの記念日です。

 

 話しは変わるが、私の父は、神戸海技専門学校を卒業した、まさにシーマンであった。
 学徒動員で商船に乗り、東シナ海をビルマまで行き、終戦間際に日本の地を踏んだはのは一船団(数百人)で数人だったとのことである。

 彼の足には、グラマンの機銃掃射で受けた傷が残っていて、私が小さい頃よく戦争の模様を語ってくれた。
 彼らに、戦争という時代が無ければ(このような世界がもしあったならば)もっと違った人生を過ごせただろう。

 (つづく)

-P.27-

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