■ 2001年7月20日(金)

 ヒューレット・エステートと"Death Ride 2001"


Quote…Unquote: Champions aren't made in gyms. Champions are made from something they have deep inside them -a desire, a dream, a vision. They have to last-minute stamina, they have to be a little faster, they have to have the skill and the will. But the will must be stronger than the skill. -Muhammad Ali (U.S. boxer, 1942-)

4年ぶりの"Death Ride"であった。
ウォルター・ヒューレットさんは、4年前より若く見えた。

レイクタホのほとりにあるヒューレット・エステートに到着したのは、米国時間の7月13日(金)14時であった。 4年前と同じように日本HP社の高橋圭三さんがサニーサイド通りまで出迎えに来てくれていた。
今回の渡米は、某自動車メーカーH社の和光事業所(情報システム部門)に派遣社員として勤務するK君と同行した。彼は、初めてパスポートと国際運転免許を取得しての渡米であり、左ハンドル、左側車線での海外の運転も初体験となった。

旅行の全行程は以下のとおりである。

 

7/11(水):成田(16:00発)〜サンフランシスコ(7/11 9:00着)
   午後:Zapex社(マウンテンビュー)増田副社長訪問
   夕刻:増田さんとサンタクルーズのCARNIGLIA'Sで夕食
      マウンテンビューの増田さん宅に宿泊

7/12(木):マウンテンビューからモントレーへ
   午前:モントレー水族館を見学
   午後:モントレーからサリナス経由で、i-680を北上
      サクラメントのクラリオンホテルに宿泊

7/13(金):サクラメントからレイクタホへ
      ヒューレットエステートに宿泊

7/14(土):Death Ride 2001
      ヒューレットエステートに宿泊

7/15(日):早朝にロッジの清掃
   午前:レイクタホからサクラメントへ
      サクラメントのオールドタウンで昼食
   午後:サクラメントからサンフランシスコへ
      フィッシャマンズウォーフ・ハイアットホテルに宿泊

7/16(月):サンフランシスコ(12:00発)〜成田(7/17 14:30着)

注)この旅行の詳細情報については、以下のURL(K君のWebサイト)がお勧め!
http://masamkur.tripod.com/lib/quest/

 

7月13日から2泊したヒューレット・エステートは、4年前とほとんど変わっていなかった。
レイクタホの中心地にある信号機のある交差点からノースタホ方面に車で7、8分くらい走ったところにあるサニーサイド通りの角にあるこの別荘は、私の推量だが、500 x 300m(約4,000坪)以上の土地にメインロッジ(ロッジといっても30〜40人は収容できる)があり、それを取り巻くように数人が泊まれるロッジが点在する。

我々が宿泊したロッジの裏側のテラスからは、レイクタホとそれを取り巻く山々が見える一番よい場所であった。

ヒューレット・パッカードの創始者の一人であるウィリアム・ヒューレットさんが亡くなったのは、今年の1月とのこと。
生前のヒューレットさんが一番愛したというロッジを我々日本人クルーに用意してくれたウォルターさんの暖かい心と配慮に感謝の念で一杯になった。

あの有名なガレージから生まれた世界第二位のコンピュータメーカであるヒューレット・パッカード社は、基本的にはエンジニアリング魂が社風となっていることから、このような飾らない、そして人の上下関係を意識させない良い意味での「風」のようなものが脈々と流れているのだろう、と私は思う。

そういえば、私が1989年から勤務したDEC社も創業者のケン・オールセンがクリスマスには社員と同じ列に並んで七面鳥の配給を受け取ったり、従業員用の駐車場には社長専用の場所がなく、早くきた人から車を止めるため、彼が一般社員と一緒に駐車場を歩いて出社するという社風があり、DEC社はその「風」を大事にしていたものだ。

ヒューレット・エステートがあるサニーサイド通りの名のごとく、このロッジのテラスから見るレイクタホの日の出には目を見張るものがあった。
この記録原稿を書いている数日前に、ヒューレット・パッカード社がCOMPAQ社を買収した。そのCOMPAQ社は数年前にDEC社を買収した企業である。

7/14(土)は、3:00に起床、各自身繕いを整えながら簡単な朝食を取り、4:00にロッジを出発。
Alpine CountyにあるDeath Rideのスタート地点に5:30到着。
そこからは、個人個人のペースに合わせて一路、最初の到達点である標高約3,000mの「Monitor」山頂に向かって自転車を漕ぎ続けることになる。

全コースの要所要所には、村人達(ボランティア)による飲み物、スナック、果物のサービスを提供するテントと仮設トイレが用意されている。
医療や自転車の修理も受けられる場所もあり、その他にバイク(私の大好きなBMW-R1000)やワゴン車によるレスキュー隊によるロードサービスが提供されている。
「Death Ride」は毎年7月に行われ、3,000人のライダーが参加する「村おこしのイベント」なのである。
https://www.deathride.com/

今年のDeath Ride 2001は、100名近いHP社のチームの1/3が5つの目の山頂を制覇完走した。
Death Rideはそのイントネーションが示すように「死の自転車レース」である。早朝5:30にスタートして、コースが締め切られる夕刻19:00までに3,0000メートル級の山々を五つ(ファイブパスと呼ぶ)を極めることが完走の条件となる過酷なレースではあるが、そのレースに対する取り組み方(楽しみ方?)は様々であり、それぞれのペースでこのイベントに参加することが楽しみの一つである。

私の好きな「アメリカの多様性」と「ボランティア精神」が凝縮された一つのプロジェクトといえる。

同行したK君は初参加で3パス、りっぱなものである。27歳の彼が初めての海外旅行で味わった”この経験”が彼のこれからの人生に少しでも役にたてば、と思う。
もう一人の日本人クルーの松井慎吾さんは、見事5パスの完走。
私と高橋さんは、次回に課題を持ち越すことで、それぞれの"Death Ride" が今年も終わった。

今回の旅の私にとっての一番の思い出は、宿泊したロッジのテラスにあった「ひまわり模様のブランコ」を写真に収められたことである。生前のウィリアム・ヒューレット氏が、このブランコに座って日がなレイクタホを眺めていたそうだ。

(つづく)

-P.28-

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