九段下の靖国神社の向かいにある「こだわりや」で、会社の女性たちが待っていてくれたので、8時頃に仕事を切り上げてお店で合流した。花見酒と地鶏を中心にした料理を楽しんだ後、四ッ谷まで夜桜の下を歩いた。
この先にある赤坂御門から麹町は、北方謙三の「余燼」にある打ち壊しの最後の決戦場になった場所である。江戸城北の丸のすぐ近くにある半蔵門まで打ち壊しの群集が迫った時は、尾張や紀伊の藩兵まで出動したというが、三日三晩続いた江戸庶民の怨念はすさまじいものがあったに違いない。
「余燼」は祖父から学んだ馬庭念流の遣手である影井誠一郎を主人公にした物語である。元禄時代が終わり、徳川吉宗の享保の改革を経て、天明6年に田沼意次が失脚し、将軍徳川家治も没する政権の空白時期を背景とした、これまでの北方謙三のハードボイルド小説とは一線を画した「時代小説」であった。
甲府勤番の影井誠一郎は上司の命令で訳も知らされないで親友を切ることになる。その親友が自ら切られたことに疑問を抱き、江戸に向かうことから、松平定信を老中にさせるために敵味方が交錯しながら殺し合う修羅場へと巻き込まれていく。誠一郎は幾度かの果たし合いを経験しながら、北方謙三のハードボイルド剣豪小説「風樹の剣」の主人公と同様にゾクっとするような剛剣を遣うようになるが、この小説のテーマはもっと違う次元にあった。
この小説のメインテーマは「男伊達」である。それは干ばつや冷害による米不足をいいことに米を買い占めて、高い値段で米を売る悪徳米問屋を、飢える江戸庶民が一粒の米を盗むことなく整然と打ち壊しをしていくために必要な"光"の存在である。
少し長くなるが、以下に一文を紹介する。
常吉がやってきたのは、夜になってからだった。い組の若い衆を二人連れている。若い衆は、部屋の隅にかしこまって座った。「楽にするように言ってやれ。それから、俺の怪我に驚かないようにな」
「い組の梯子持ちなんですが、俺のことを、兄貴扱いしてましてね、それも荒っぽいだけじゃねえんです。暮れに高村屋にやらせた安売に、ひどく感動してるんです。ああいうことを、火消しでもできるんだってね」
火消しは、火を消すのだけが仕事ではない。小平太が言っているのは、それだった。毎日火事があるわけではないのだ。江戸の人々が、火消しがいることで、安心して暮らしている。それは、火に安心しているというだけでなく、たとえば子どもが川で溺れていたら、最初に火消しが飛び込んで助けてくれる。町内の家のどこかが壊れそうになった時も、火消しが飛んできてくれる。
そんなふうに、火消しとういのは、江戸庶民の光であるべきではないのか。江戸庶民の光と思われることが、ほんとうに男をあげるということではないのか。
常吉が連れてくる火消しの若い衆に、小平太はそんなことを説き続けていた。はじめは、なんとなく堅苦しい話だと常吉は感じていたようだが、加助と命がけでやりあったのも、高村屋に安売をさせたのも、すべて江戸庶民の光になるためだったのだ、と説いてやると、いつの間にかこちらの話に引き込まれてきたのだった。
加助との喧嘩も、高村屋の件も、感情を爆発させただけでなく、はじめからそのつもりがあったのだと、常吉はいま自分に思いこませようとしている。そういう常吉の心の動きも、小平太にはよく見えた。常吉がここへ連れてきた若い衆は、すでに十人を超えていた。
あまり難しいことは言わない。常吉のやったことが、男伊達とどう結びつくのか、話してやるだけなのである。
いま、江戸庶民の命に火をつけて燃やしてしまおうとしている、ひと握りの人間たちがいる。最後にそれを言う。それが誰であるのかは、自分で考えろとも言う。
話はそれで終わりで、あとはおえいか真佐が酒を運んでくる。粗末だが肴も付いていて、火消したちは恐縮する。出す酒の量も、ひとり銚子一本だけである。いくらでも出せる金はあるが、一本というところがいいのだ。
火消しをいくら教唆したところで、火事の消し方が変わるわけではない。連中が持っている荒っぽい本性が変わるわけでもない。
ただ、なにか予感があった。連中が集まれば、なにかができるのではないか、という予感である。それがなにかは、小平太にはわかっていなかった。
こうやって、少しずつ見えていなかった何かが醸成され、エネルギーが満ちた時に打ち壊しが始まる。北方謙三の小説の描写も、沢井小平太達がやった打ち壊しも(表題にある英語のように)一つの小さな日常を連綿と積み上げていった結果なのである。
この小説のメインテーマは、打ち壊しのために江戸庶民が必要とした男伊達という光であるが、その一方で沢井小平太に打ち壊しのための軍資金を提供した、尾張藩徳川宗睦の家臣河野庄左衛門が、一人火鉢の炭をいじりながら声をあげて笑う「天下」の章にある以下のくだりが、作者が言いたかった本題であるように私は思う。
いずれにせよ、手駒の十一名が裏切る心配はない。松平定信老中就任の実現ということについては、一致しているのだ。
そして、おぼろだが敵の顔も見えはじめてきた。
これからもっと血が流れるだろう、と庄左衛門は思った。それに対しては、やはり怯えに近い気持ちがある。六十二年間の生涯で、真剣の立ち合いの経験は一度もないのである。
いじっていた炭が、二つに割れた。なぜか滑稽な気分になり、庄左衛門は声をあげて笑った。
天下というのも、この炭程度のものではないのか。炭が割れた割れぬと、いたずらに騒いでいるだけではないのか。ただ、それが下からは見えぬ雲の上のことだから、大袈裟に考えるだけではないのか。