4月10日(水)にペナン島からクアラルンプールに移動した。
10日、11日と現地にいらっしゃる平井さん夫婦と夕食をご一緒した。
平井さんは京都に本社のあるM社の現地法人に3年程前に赴任された。
平井さんとは4年前に某新聞社の企画「ロータスノーツ製品評価プロジェクト」をお願いしたことから交友が始まった。
この製品評価プログラムは新聞紙面での露出以外に、ロータス社から12ページものの評価事例パンフレットとして20,000部印刷され配布されたことからも、大変インパクトのある企画であった。
クアラルンプール在住の日本人は約28,000人いらっしゃるとのこと、10日の夜には奥さま方を先に帰らせて、久しぶりにクラブでハメをはずさせてもらった。
私が初めてクアラルンプールに来たのは、1982年であった。
日本の建設業がアジアへ進出する、いわばラッシュの頃、日本NCR社の建設業担当営業課長Y氏、I氏に同行してのビジネスサポートだった。
この出張がきっかけとなり、H社からクアラルンプールの現地建設現場で使用する「工事会計システム」を受注した。
そのシステムの現地サポートのために、現在「盛システム開発」に勤めるJ・Hさんがクアラルンプールに出張することになった。
その頃、富山の片田舎のソフトウェアハウスが毎年アジアのリゾート地に社員旅行ができたことからも、この頃の日本経済の勢いは想像を絶するものがあった。
以下は、今回の旅行の前に頂いたJ・Hさんからのメールである。
1980年初頭のクアラルンプールにタイムトリップすることができる。
J・Hさんからのメール(私の質問にJ・Hさんが■で答えてくれた)
お聞きしたいのですが、クアラルンプールに行っていた時の時期や仕事の内容はどんなものでしたか?
■ 私も時期はうろ覚えなのですが、中曽根元首相がマレーシアを公式訪問した年で、日本海大地震があった年です。
両方とも、マレーシア滞在中にあったことです。
なん年というのは、忘れやすいです。 出来事では、覚えています。
私の記憶では、1982年か83年に私がクアラルンプール、シンガポール、香港に出かけてきてから、H社の仕事が決まり、東京の青山にあるH社の本社ビルで「海外プロジェクト管理(建設業経理システム)」の開発をある程度してから、そのソフトを現地に持って行きモディファイした!と記憶しています。
■ 仕事の内容としては、おっしゃる通りです。
クアラルンプールのH社の建築物は公営住宅(プレハブ)ではなかったかと思いますが、いかがですか?
■ そうです。とっても広い土地に立てていた覚えがあります。その場所でH社の人がゴルフの打ちっ放しを(ドライバーで、もちろんボールは自分で回収です)しておられました。
当時はまだ建物がなく、PC工法(うろ覚えです)のためのPC板を作っておられました。
当時のエピソードを差し支えの無い範囲で教えて下さい。
■ 懐かしのお話しです。順不同、箇条書きになるのをお許しください。
1) 太陽が高かった。
外にでるのは、ほとんど通勤、といっても宿舎から仕事場まで片道5分なのですが、3ヶ月もこれを繰り返して日焼けしました。
宿舎は森を切り開いたようなところなのですが、たまにコブラがいるそうです。
私は幸運?にも遭遇しませんでした。コブラは涼しいところが好きなようです。
トイレの個室にはいるときは、ドアをおけてから一呼吸おき、コブラがいないことを確認してからドアを閉めるよう、お達しがありました。
2) 食べ物。
外では、「ミー」というラーメンに似た麺類をよく食べていました。
近いところでは、宿舎から歩いてすぐの集落にある食堂兼雑貨屋(日本では昭和40年代初期の趣)、スンガイワンプラザというショッピングモールの屋上、国立モスクの庭先などなど。
1M$ほどで、どこでもおいしかったです。煮てあるので食あたりの心配もないと信じておりました(実際、腹は一度もこわさなかったです)。
街の道ばたでは、屋台のジュースを売っていました。
サトウキビをそのまま絞ったジュース。
あとは、黒砂糖っぽいジュース。
おなかに来る人は来るそうです。ジュースが悪いのではなく、ジュースを冷やすために入れてある氷が現地の水でできており、当たる人は当たるそうです。
当時は、ペットボトル入りのミネラルウォータも売っておらず、当たる人は、コーラか7Upを飲んでいました。
また、ハッカが強いのか、サロンパスのような味のジュースもありました。
3) 乗り物。
最初は、ホテルのタクシー(ベンツです)に乗っていました。
慣れてくると、行きはバス、帰りは道ばたで拾ったタクシーでクアラルンプールまで行ってました。
バスは、1.5M$ほどでクアラルンプールに行けました。
田舎では、手を挙げるとバスが止まってくれました。
田舎ではバス停ありませんでした(見つけられなかっただけかもしれません)。
バスには車掌さんが乗っていたのですが、最初は勝手がわからなくて、バスに乗っていた小学校高学年ぐらいの男の子にシステムを身振り手振りで教えてもらったものでした。
その子はマレー語しか話しませんでした。
道路を流しているタクシーには、市内用と郊外用がありました。
市内用はクアラルンプール市内から外へはでませんでした。
これは、タクシーの屋根のアンドンで区別できます。
当然、メータはありませんので、乗る前に値段交渉が必要でした。
鉄道のマレーシア駅に行きました。
建物はものすごく立派でした。
時刻表から見ると、日に5〜6本しか列車が走っていないようでした。
駅員さんに聞くとプラットホームに入ってもいいと言って、使用済みの切符もくれました。
プラットホームは長く、売店が一つあったように記憶しています。
とりあえず、以上です。 乱文ですが、宜しくお願いいたします。
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クアラルンプールはその当時の面影を残しながらも近代都市として確実に成長していた。
ホテルから空港までの高速道路の中間地点には、「パタリンジャヤ」という新しい首都ができていて、既に首相官邸の引越しを終了していた。
その周りには優遇税制によって海外のIT産業の研究所を積極的に誘致しているとJTBクアラルンプール支店のYanさんは教えてくれた。
彼は日本に住んでいたことがあり、東京理科大を卒業してからカナダの大学で修士課程を終了したとのこと。
本業の「ITコンサルタント」のかたわらにJTBの添乗員をしている。
そのあたりの複雑さが、この国の理想と現実のギャップではないか?と私は思った。
思い返せば、1973年から1989年の16年間勤めた富山のT社では、何しろ仕事、仕事で飛びまわっていた。
バンコクから車で3時間の"チャームビーチ・リゾートホテル"で富山コクヨのSさんと「いつかこのような所にカミさんを連れて来たいね」と約束したことを今も鮮明に覚えている。
今回の旅行の手配では、マレーシア航空のフライトがキャンセルになるアクシデントもあったが、JTB赤坂支店のM・Hさんには本当にお世話になった。
この場をお借りして、本当にありがとうございました。
(つづく)
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